彡(゚)(゚)で覚える 応仁の乱 ②
こんちゃす!(*´∀`*)ノ
てばさきです。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
わたしは、今日はやることが多くて バタバタしてました。
いつもは、18~19時投稿ですが、すこし、遅くなりましたw
では、今回も 前回に引き続き
応仁の乱です(^ω^)
しかし、前回、今回の投稿では、応仁の乱の前哨戦なので、まだ応仁の乱にも入ってませんがw
この投稿から見た方は 前回の記事をご覧ください(^ω^)
前回のあらすじ、
畠山弥三郎・政長派連合軍が、
畠山弥三郎方が勝利。
彡(゚)(゚)←足利義政「畠山弥三郎が、畠山の家督を継ぐのはしゃあない」
彡(゚)(゚)「でも、今回の戦は喧嘩両成敗や。とりあえず、細川勝元の部下が、畠山弥三郎を匿わなきゃこんなことにはならなかった。だから、細川勝元の部下は処刑や」
(`・ω・´)←細川勝元「(むっ…的を射てる…致し方ない)かしこまり!」
(゚д゚ )←山名宗全「は?お前、受け入れるなよ!それ受け入れたら、今回の戦で、ワイらに非があったと言ってるようなもんやん!」
彡(゚)(゚)「なんや!わいに逆らう気か!勝元!宗全を殺っちゃえ!」
(`・ω・´)「いや!どうか、それだけは許してください!何でもしますから!」
彡(゚)(゚)「ん?今なんでもすr…(略)じゃあ、刃向かった宗全を隠居させろ!」
(゚д゚ )「しゃあない」
畠山弥三郎を家督に認めたが、戦後処理として、義政は、今回の戦いの原因でもある、細川勝元の部下を処刑することで、決着をつけようとした。勝元も受け入れたが、宗全そのことに反発。義政は反発した宗全を倒すように勝元に命じたが、勝元は嘆願した。宗全は赦してもらったが、将軍に刃向かったということで、隠居をするということで、決着がついた。
このころはまだ仲の良い二人であった。
それもそのはず、勝元の義父が、宗全だからである。
( º дº)←畠山義就「あれwwww宗全がいなくなって手薄だwwwwこの隙に弥三郎から家督を取れwww」
弥三郎「逃げるンゴw」
( º дº)「やったで。」
山名宗全が、隠居し、京から離れたことにより、前回の戦で逃亡してた畠山義就は軍勢を率い上洛。畠山弥三郎はそれに逃亡。
(´^ω^`)←畠山持国「ぐはwww死んだンゴwww」(1455年)
( º дº)←畠山義就「わいが継ぐで。しかし、まだ畠山弥三郎・政長を慕うものもいるな…せや!弾圧や!」ヘイウゴカシー
彡(゚)(゚)「わいの許可無く兵を動かすな!」
( º дº)「ついでに、細川の城攻めたろwww」
(`・ω・´)←細川勝元「やめるんだ!」
畠山持国が死に家督を継いた畠山義就は、弥三郎・政長派の勢力を弾圧。そして、細川勝元領の城も攻める。細川勝元は、弥三郎を擁立し、対抗姿勢を示した。
(゚д゚ )←山名宗全「義政から赦されました」(1458年)
(゚д゚ )「わいは先日、義就に一揆の鎮圧を助けてもらったから 義就につくで。」
( º дº)←畠山義就「ありがとうやで」
山名宗全は義政から赦され
中央政界に戻ってくるが、その際、赦された同年に畠山義就に、一揆鎮圧を手助けしてもらったこともあり、畠山義就派になるのである。この頃から、細川勝元と山名宗全の間に溝ができる。
畠山弥三郎「死んだンゴwww」(1459年)
(^p^)←畠山政長「よろしくニキーwww」
彡(゚)(゚)←足利義教「義就は勝手にわいの命令無視したからな。政長が正式な家督継承者や!」(1460年)
( º дº)←畠山義就「追放されたが、反発するで。」
彡(゚)(゚)「とりあえず わいに反発する奴は どんな奴でも倒すで。」
( º дº)「結構粘ったけど、自城が落ちたわ
逃げよwww」(1463年)
1459年に畠山弥三郎が死ぬと、
細川勝元と畠山弥三郎・政長派の畠山家臣は、畠山政長を擁立。足利義政にも、家督を認めてもらった。一方、畠山義就は追放処分となったが、反抗。幕府軍は畠山義就の居城をたたき、約3年の籠城戦で、畠山義就方は負け、畠山義就は吉野に逃れた。
今日はここまでです(^ω^)
おそらく、この応仁の乱のネタはまだ続きそうなので、土日 歴史ネタ 平日は小説。
5回に1回は古典ネタというサイクルで行きたいと思います(`・ω・´)
それでは、次の投稿であいましょう。
ではヾ(ω` )/
前回の応仁の乱
http://tebasakiuziyasu.hatenadiary.jp/entry/2017/06/24/182329