彡(゚)(゚)で覚える 応仁の乱③
こんちゃす!(*´∀`*)ノ
てばさきです(^ω^)
今日は日曜ですね!
みなさんはいかがお過ごしでしたでしょうか?
私は折角の日曜というのに、寝てしまいました。有意義に使いたかったです(´;ω;`)
今日は日曜投稿ということで、歴史、
途中で終わってた「応仁の乱」です。
早速参りましょう。
前回の投稿を読んでない方は、
そちらからお読みください(^ω^)
前回のおさらい
幕府の許可なく 兵を挙げた畠山義就が、
畠山義就は逃亡。
畠山義就との戦から遡って六年前…
彡(゚)(゚)←足利義政「関東の鎌倉公方がわいの派遣した 政知兄貴の堀越公方と足利成氏の古河公方に分裂したで。」(1455年)
彡(゚)(゚)「とりあえず 古河公方がまだわいに刃向かうから、斯波義敏を派遣して、倒してもらうで」
(^ω^)←斯波義敏「わかったで。」
彡(゚)(゚)「よし、じゃあ攻めてこい!」
(^ω^)「…」
彡(゚)(゚)「なぁ早く動いてくれよ」
(^ω^)「俺が関東に行ってる間、部下が反乱を起こすに決まってるで。」
彡(゚)(゚)「なぁ…」
(^ω^)「まずは、部下を倒してからやで。部下に攻めれーwww」(長禄合戦:1458年)
甲斐氏「あかん」
彡()()「ファ!?お前斯波家クビや。息子の松王丸(後の斯波義寛)に家督継がせるで。」
三代将軍 義満の頃から、鎌倉公方は幕府に反発しており、義政の時代になっても依然として 反発を続けていた。
義政は斯波義敏を派遣して 古河公方を滅ぼそうとしていたが、斯波義敏の領内で甲斐氏が反発しており、斯波義敏は急遽 甲斐氏を殲滅しようと挙兵。 この行動が 将軍義政の怒りを買い 更迭。義敏の息子松王丸を斯波家家督にする。
彡(゚)(゚)←足利義政「松王丸を斯波家の家督にしたのはいいが、まだ松王丸は子供やし。」
彡(^)(^)「せや!わいの兄ちゃんの側近の息子を斯波家の家督にしたろ」
(°∀° )←斯波義廉 「よろしくねん!」
渋川義鏡(斯波義廉の父)「失脚したニキーwww」
彡(゚)(゚)「あかん。斯波家の当主の父が失脚したといっちゃあ、体裁が悪い。せや!斯波義敏を呼び戻して もっかい当主にならせたろ!」
(^ω^)←斯波義敏 「都合よすぎ」
(°∀° )←斯波義廉 「都合よすぎ」
松王丸を斯波家の家督にしたが、幼年ということもあり、自分の兄 足利政知の執事、渋川義鏡の息子、後の斯波義廉に継がせる。
しかし、渋川義鏡が失脚したため、更迭した斯波義敏を呼び戻して家督を再度継がせようと画策する。これを機に、斯波家に家督争いの影が見え始める。
ある日…
富樫家・小笠原氏・六角氏「我々も 家督争いや!」
彡(゚)(゚)←足利義政「ヤメナサレヤメナサレ…酷い殺生はヤメナサレ…わいが仲介するで…ええと…ええと…ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ ブリリリリリリブリリリリッ!」
世の人「一貫性が無くて、信用出来ない!」
またある日…
彡()()「マッマが死んだンゴ…」(1463年)
彡(゚)(゚)「マッマが死んだに際して、いままでのことは水に流そうと思う。畠山義就と斯波義敏を正式に許すわ。」
( º дº)←畠山義就 「復活やwwwさて家督争いやwww」
(^ω^)←斯波義敏 「復活やwww家督争いやwww」
世の人「本当に首尾一貫してないなぁ…」
この時代になると、各地の守護大名や守護代の家督争いが頻繁に行われるようになった。
幕府はそこに仲介をするが、首尾一貫しない対応により 幕府の信用がガタ落ちした。
さらに、義政の母、日野重子が亡くなり
大祓のとき、義政は穢れがあると良くないということで、各方面の罪を赦免した。
その中に畠山義就や斯波義敏も含まれており、畠山家と斯波家の家督争いが再熱し、
このことで、さらに幕府の信用は下がった。
これで終わりです!
次回はいよいよ 応仁の乱に入ってきます(^ω^)
長いです。非常に…
それでは次回会いましょう!
ではヾ(ω` )/