彡(゚)(゚)で覚える応仁の乱 ⑤
みなさんこんちゃす(*´∀`*)ノ
てばさきです(^ω^)
不定期投稿宣言後、初の投稿です。
なんとか終わらせよう。
~前回のあらすじ~
足利義視が還俗し、時期将軍は決まったかに見えたが、義政と富子の間に義尚が生まれ、
後継者争いの予感。
彡()()←足利義政「うっ、こんなつもりじゃなかったのに…義視恨まんといてな…」
伊勢貞親・季瓊真蘂「将軍が弱ってる…チャンスや…」
伊勢貞親「つい先日 追放されて赦免された斯波義敏はわいの親戚や。正式に斯波家の家督にしてもらうように義政に言おw」
伊勢貞親「将軍さん、斯波義…」
彡()()「ええで」
伊勢貞親「やったで。」(1466年)
足利義政の側近「とりあえず、義視が邪魔になったな…謀反の罪着せて 殺しちゃおwww」
( `益゜)←足利義視「あかん」
(゚д゚ )←山名宗全・一色義直・土岐成頼・他義視派「流石にそりゃやりすぎ」
(`・ω・´)←細川勝元「山名宗全は意見が合わないが、こればかりは山名宗全の言う通り。当の義視もワイを頼ってきたことやし。ワイも義視派になるで。」
彡()()「義視ー!加担したものはみんな追放」
(^ω^)←斯波義敏・伊勢貞親・季瓊真蘂・赤松政則「追放されたンゴwww」(同年)
1466年に伊勢貞親は1463年に赦免された斯波義敏を、斯波家家督にしようと画策。
義政は斯波義敏を斯波家家督に認める。
その後、義政側近が義視に無実の罪を着せて
誅殺しようと画策。
義視は細川勝元を頼り 細川勝元は義視の後見となる。多数の大名も義視を後見し、
義政は義視暗殺を画策したメンバーを尽く追放した。その中には前日斯波家の家督になったばかりの斯波義敏もおり、斯波義敏はわずか2ヶ月で家督を変えさせられた。斯波義廉が再度家督を相続。義政の側近がこのような事件を起こしたこともあり、さらに幕府の信用は落ちた。
( º дº)←畠山義就「出陣じゃー!」(1466年12月)
彡(゚)(゚)←足利義政「ファ!?いきなりなんだ!もう戦争は懲り懲りや。畠山家の家督に認めるから手を引いてくれや。」
(`・ω・´)←細川勝元(^p^)←畠山政長「勝手に決めるなよ!」
(`・ω・´)「これは、義政に直訴するしかない…義政の家を占拠して、畠山義就を倒すように命令を出させよう。」
(*^O^*)←日野富子「情報が漏れてるんだ!山名宗全さん!細川勝元さんが、よからぬ事を!」
(゚д゚ )←山名宗全「なんやて!?(これは逆に細川勝元と畠山政長を追放するチャンスや!)義政はん!これはこいつら追放せなあかんで!」
彡(゚)(゚)「んー、細川勝元は追放すると 幕府にも大きな痛手…畠山政長だけならええで。ただ条件として、これは畠山家の家督争いやから、他の家は口出しNGやで」
周りの人達(お前さんざん、他の家に口出した結果がこれなんだよなぁ…)
1466年 12月 突如畠山義就が挙兵。
当時管領の畠山政長や細川勝元の許可なしに、室町亭(義政の家)に招く。
1467年にこの挙兵のおとしまえとして、
畠山政長派の細川勝元は将軍義政に直訴しようと将軍邸を占拠しようと企むが、日野富子がそれを察知し、山名宗全に漏らし計画は頓挫。山名宗全は細川勝元・畠山政長追放のチャンスとばかりに将軍に直訴。
細川勝元追放はならなかったものの、畠山家の家督争いは戦で決着をつけることと決まった。
(^p^)←畠山政長「いくさじゃー!www」
( º дº)←畠山義就「いくさじゃーwww」
(゚д゚ )←山名宗全・(°∀° )←斯波義廉
・(;´∀`)←朝倉孝景「戦…来ちゃった♡」
(^p^)「ファ!?加勢しないはずやろ!」
一方細川勝元は、
(`・ω・´)「わたしは、将軍の命令により、援軍は出しません。」
世の人「仲間が戦ってるのに…細川勝元は本当にダメやな」
(´・ω・`)←細川勝元「えぇ…」
畠山家の戦が遂に始まった。
将軍の命令どおり 援軍は禁止であったが、
山名宗全らは密かに援軍をおくる。
これに対し、真面目なおりこうさんの細川勝元は、援軍を出さなかったが、周りの人は、山名宗全が援軍を出してるのに、お前は出さないのかよ。と非難を浴びる。可哀想。
今日はこの辺にしときます!
次いつ投稿になるかな?わかりませんが!
次の投稿であいましょう!ではヾ(ω` )/
*1:°ө°